|
|
寺々が並ぶ北裏通りの一番東に位置する。室町時代の永享10年(1438年)創建。
本尊は宝冠釈迦如来座像。
境内には、戊辰戦争時に戦死した会津娘子隊隊長中野竹子女史の墓、坂下出身の作曲家
猪俣公章さんの墓がある。
所在地:会津坂下町光明寺東 |
|
|
|
|
|
中野竹子女史は、会津藩士中野平内の長女で、戊辰戦争では娘子隊の隊長として出陣、
若松城下柳橋(神指地区)付近で戦死する。
妹優子が介錯、母孝子と共に女史にゆかりのある坂下の法界寺までその首級を届けた。
女史は若松の実家を離れて坂下に住み、青春時代のほとんどを坂下の剣術道場で剣術や
長刀の修行をしていたそうです。女史の美貌と剣の腕に惚れ込み愛を告白しても、「私の剣に
勝ったらいいわよ!」と言うので若松や坂下の若侍達が何人も挑戦したが、女史の剣に敵う
者はいなかったそうです。父平内も、とうとう女史の結婚をあきらめてしまったという。
「武士(もののふ)の 猛(たけ)き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」の辞世の句に
は、嘉永3年(1846年)〜慶応4年(1868年)の22年の女史の生涯と細腕ながらも忠君
愛国、国に殉じた想いが伝わり、戦場に散った女史の無念さを思うと胸にこみ上げるものが
あります。
「男性に比べたら頼りないかもしれないけど、わたし負けないわよ!」と戦場に赴いていった
女史は今なお会津女性の鏡とされ、墓前には線香の煙が絶えることはないのです。
毎年9月には墓前祭(小竹忌)が行われて女史を慰霊しています。
事前に許可を得れば、女史の遺品の薙刀などを拝観できます。
写真は法界寺境内の中野竹子女史の墓所 |
|
|
|
浄土宗 正覚山光明寺(しょうかくざん こうみょうじ) |
|
|
町役場の真裏に位置する。元亀2年(1571年)開山。
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした年です。
文化元年(1804年)の再建の、江戸後期の秀作の楼門(四脚門)が目を引きます。
本尊は阿弥陀三尊仏。脇侍として観音、勢至菩薩、善導大師、法然上人の祖師像がある。
本堂内陣の天井や円柱、来迎壁などに極彩色の文様が描かれ、内外陣ともに近世浄土様式
を表しています。
民衆の浄土信仰を彷彿とさせ、一見の価値は充分にあります。(事前許可が必要)
世界的版画家 斉藤 清画伯夫妻の墓所。
所在地:会津坂下町茶屋町 |
|
|
|
|
|
山門は2階建の門で下層には屋根がなく、上・下層の間には高欄付きの回縁を廻らす、
入母屋造で銅板葺、楼上に梵鐘を吊り下げた鐘楼門です。
江戸後期の入念な造りとなっており坂下では唯一の鐘楼門で、町の有形文化財に指定されて
います。 |
|
|
|
浄土真宗大谷派 摂取山光照寺
(せっしゅざん こうしょうじ) |
|
|
町役場の真裏、光明寺の西隣に位置する。寛永元年(1624年)の開基。
三代将軍徳川家光の時代で、桂離宮、日光東照宮の陽明門が完成したころです。
京都東本願寺の末寺、本尊は阿弥陀如来。
当寺の絹本著色光明本尊(けんぽんちゃくしょくこうみょうほんぞん)は、県の重要文化財に指定され
ており、鎌倉時代末期の作で光明本尊としては日本最古のものと伝えられているものです。
中央の金文字から発する光明を浴びて左にインド、中国の祖師像、右に聖徳太子、蘇我馬
子、小野妹子、源信、法然、親鸞など日本の8人の祖師像が描かれており、インド、中国、
日本の浄土関係の祖師の系譜を描いた浄土真宗独特のものです。
所在地:会津坂下町茶屋町 |
|
|
|
|
|
幼い頃祖母から聞いた光照寺の聖徳太子孝養像にまつわる昔話です。
むか〜し昔、お太子様は元は隣の光明寺におられました。
ある夜、お太子様が住職の夢枕に立たれて「あちら(光照寺)に行きたい。」と言われた。
初めは信じられなかったが、それが三日三晩も続いたので住職は檀家のみんなを集めて、
夢枕に立たれたお太子様のお言葉を伝え「なじょしたらよかんべ?」と相談した。
驚いた檀家衆は「あーでもねぇ。」、「こーでもねぇ。」と喧々諤々言い合ったそうだ。
それでも、「お太子様が行きたいとおっしゃるのならお心のままにしてさしあげよう。」と意見が
まとまったそうだ。それ以来、お太子様は光照寺におられると言うのだ。
たしか昭和30年代前半頃は聖徳太子像は境内の太子堂内(写真)にあり、太子講の日には
太子堂を華やかな造花で飾り、講中の人が近所の子供たちにお菓子をふるまったりしていま
した。お太子様は現在は本堂におられます。
昔の坂下地域は太子信仰が盛んで、太子講も昭和30年代までは盛大に行われていました。
写真は光照寺太子堂 |
|
|
|
|
|
町役場の西の道路を北へ、光照寺の門前を通り、「堀部安兵衛生誕の地」の看板を目印に
左奥に位置する。坂下生協の裏側。長元元年(1028年)開山創建。
日本史では平安時代で藤原氏全盛の頃です。本尊阿弥陀如来立像は江戸時代の作。
赤穂浪士47士の一人、堀部安兵衛生誕の地。
所在地:会津坂下町茶屋町 |
|
|
|
|
|
映画「忠臣蔵」などでおなじみの堀部安兵衛は、父の新発田藩士中山安太郎夫妻が知る辺を
頼って坂下に移り住み、寛文10年(1670年)に生まれたという。
幼名は安之助、5歳の時に母が亡くなり、父も天和2年(1682年)に亡くなった。
長じて江戸へ出た安兵衛は、赤穂藩士堀部家の養子となりその後の活躍ぶりは周知の通り
です。(17、8歳頃まで坂下に住んでいたそうです。)
境内には両親の墓と安兵衛夫妻の供養塔が建つ。幼少の安兵衛が、境内や周辺を近所の
子供たちと走り回って遊んでいた光景が目に浮かぶようです。
寺域の西を南北に走る道路は「安兵衛通り」と名付けられ、安兵衛の銅像が行き交う人と
町内の安全を見守ってくれています。
毎年12月14日には堀部安兵衛の追善供養が行われています。
写真の右が中山安太郎夫妻の墓。墓の後ろに元の墓石がある。
左は堀部安兵衛夫妻の供養塔。 |
|
|
|
曹洞宗 益葉山定林寺(えきようざん じょうりんじ) |
|
|
寺々が並ぶ北裏通りの一番西に位置する。
「会津年表」によれば、建久4年(1193年)河沼郡高寺36坊の一つ定林坊を同郡栗村に
遷し、益葉山定林寺と号し、高寺の本尊徳一作観音像を安置す、とあります。
建久4年(1193年)とは鎌倉時代の初め頃で、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた翌年です。
「新編会津風土記」によれば、元亀・天正年間(1570〜1591年)は、栗村の地頭栗村氏の
館があったという。
境内には会津坂下町の恩人栗村弾正の墓がある。
戊辰戦争の時には、越後長岡藩が会津に援軍を送りここに本陣をおいたそうです。
須弥壇下から発見された木造宝冠釈迦如来座像は室町時代の作で、町指定文化財です。
(非公開)
栗村弾正については別項で紹介します。
所在地:会津坂下町舘ノ内
|
|
|
|
|
|
県立坂下高校グラウンド裏を流れる栗村堰は、栗村弾正盛俊によって開削が計画され、
約30年後に竣工した灌漑用水路です。
これにより坂下の農業は勿論、商工業発展の基礎となったのです。
写真は栗村弾正の墓所
栗村弾正盛俊の子孫の墓所ではありますが、盛俊以外にも「弾正」を名乗った人は数名おり
ます。
「弾正」とは、中世の荘園・公領の税官吏の役職名でした。
|
|
|