町南の原地区の鶴沼川から県立坂下高校グラウンド裏を通り町外を大きく迂回して塔寺地区
までを流れる川が「栗村堰」です。
今は7m程の川幅しかありませんが、昭和40年代の始め頃の堤防間は15m程もあり堤防
の高さも7m程あったかと思います。(もっと大きな流れだったのかも。)
昭和30年代は流れも清冽で岸辺には芦原が広がり、夏は坂下駅周辺に住んでいた小学生
達の格好の水遊び場でした。(当時の子どもたちは「原の川」と称していました。)
流れのそばには桑畑が広がり、黒く熟した桑の実を食べまくり、口のまわりはもとより手や
シャツまで紫色にして家に帰り、母親にこっぴどくしかられたことがあったっけ。
また、昭和31年(1956年)には写真付近の堤防が決壊し、町が大洪水にみまわれたことも
ありました。
栗村堰は、定林寺の「栗村様感謝の碑」碑文によると、栗村弾正盛俊が永仁4年(1296年、
鎌倉幕府末期)この地に笠松館を築き、七之宮(現在の喜多方市塩川町)から移り村名を
取って栗村氏と称したとあります。(栗村氏は芦名氏の時代に現在の塩川一帯(七之宮)を
拝領して七之宮氏を名乗り、盛俊の時に栗村の地を与えられ地頭となった。当時の定林寺
周辺から西の集落を栗村、台の宮公園あたりの集落を坂下(ばんげ)と呼んでいました。
当時の町は集落が東西に分散していたようです。)栗村氏はこの地の水利が悪く、不毛の地
が多いのを見て水路を開こうと屋敷神の栗村稲荷神社に祈ったそうです。
(町の西端諏訪神社の南隣の栗村稲荷神社は元は定林寺境内にありましたが、明治の神仏
分離令によって今の場所に遷座しました。)
満願の夜、夢うつつに白狐が天から舞い降り水路とすべき地を示された。
これにより元弘元年(1331年、鎌倉幕府滅亡直前)栗村堰の開削に着手、一時戦乱のため
中断(新田義貞の鎌倉攻め、南北朝の動乱で子、孫が戦死する。)、やがて戦乱が収まり
曾孫盛清の代の正平年間(1346年〜1369年)になってようやく工事が竣工し、その後改修
工事が行われ元亀元年(1570年)になってようやく現在の流域に完成、長さ13.4km、
荒地780haが美田と化し、農業は勿論、商工業発展の基礎となったのです。
栗村弾正は文字通り会津坂下町発展の恩人で「坂下に生まれ育った者は栗村様の恩を忘れ
るな。」と言うのが古くからの戒めとして語り継がれています。
もう少し付け加えると、栗村氏とは、神奈川県三浦半島を本拠としていた鎌倉幕府の御家人
三浦一族の佐原十郎義連の系譜の藤倉氏の一族で、七之宮(喜多方市塩川町)の地頭職と
なり七之宮氏を名乗ります。盛俊の時に栗村の地頭となり笠松館を築いて栗村氏を名乗り、
永仁4年(1296年)から天正17年(1587年)の293年間当地の地頭を務めました。
(地頭とは、荘園、公領の軍事、警察、徴税、行政をみて直接、土地や農民を管理する役職
です。簡単に言えば、警察、軍事力を持った徴税官と言うところでしょう。)
現在の栗村堰は昔日の面影はなくなってしまいましたが、700年後の今も流れを絶えること
なく灌漑用水としての役割を充分に果たし、米どころ会津坂下の田畑を潤しており、町民は
会津坂下町の礎を築いた恩人栗村弾正に今なお、畏敬と感謝の念を抱いてるのです。
毎年7月の栗村稲荷神社の例大祭の御田植祭では、神輿巡行が行われ、早乙女踊りや
神楽が奉納される。また、町内の定林寺でも栗村弾正への報恩感謝の読経があげられ
早乙女踊りも奉納される。
ライバン通りは歩行者天国となって露店が並び、各町内から太鼓屋台も曳き回されるなど、
夏休みを目前に控えた子供たちの明るい歓声があふれ、笛や太鼓の音とともに、にぎやかで
活気にあふれた祭日となります。
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