会津坂下町歩くべガイド

      中央公園(坂下代官所跡)
町役場前のライバン通りをはさんだ奥の中央公園のあたりは坂下代官所があった所です。
会津藩の藩政下では北会津の中荒井村郡役所に所属していて、坂下組と牛沢組を統括して
いて、明治以後は河沼郡役所がおかれ大正15年まで機能していました。
昭和40年代までは県の出先機関が置かれていて、私の小学生の頃はここにあった建物を
「税務署」と呼んでいました。それらの機関は会津若松に統合され、跡地が公園として整備
され町民の憩いの場となっています。
お代官様の厳しい税の取り立てに苦しんだ人もいたことでしょうが、今は夏には木々の葉が
茂り近くの幼稚園児たちの散歩コースとなり、秋にはもみじの葉が真っ赤に色づき見る人の
心を和ませてくれる。ベンチに腰を下ろし深呼吸してみると歴史の時のうつろいを感じます。
そして、町役場があるあたりには代官屋敷と役人の住居があった所だそうです。

ちなみに、江戸時代から戊辰戦争までの会津藩の財政事情は度重なる飢饉や会津大地震、
水害などの復旧事業、更に幕末の京都守護職就任や江戸湾防衛の為のお台場建設、相模
湾や蝦夷地守備への派兵などの出費で借金に借金を重ね、まったくの財政破たん状態で
領民への課税と税の取り立てはことのほか厳しいものがあったようで、領民の生活は困窮の
極みにあったようです。
会津戦争では、白虎隊や娘子隊の悲劇や戦後の斗南藩の悲惨さが語られていますが、領民
の立場あるいは経済面から検証すると意外な一面をうかがい知ることができるようです。

           諏訪神社(すわじんじゃ)
♪緑の梢諏訪の森、♪大空はるかに雲がゆく・・・・。で始まる坂下小学校の校歌に歌われた
会津坂下町の鎮守様、勅宣宮諏訪神社です。
祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとのひめかみ)
坂下の人達は「お諏訪様」と称して慕ってきました。

創建年は不詳ですが「異本長帳」には、嘉禎元年(1235年 鎌倉時代、北条執権体制が
確立した頃)に祀る、とあります。
もとは町の北、古町地区にあったが寛永8年(1631年 3代将軍徳川家光の時代で幕藩
体制が確立した頃)に村西に遷ったという。明治17年の会津三方道路開削の時に現在地に
遷されました。
寄進された灯籠には元禄14年(1702年、赤穂浪士討ち入り事件の年)のものがあり、
少なくとも300年以上前からこの地にあったことは確実です。

昭和31年(1956年)頃は、境内を近所の子供たちが走り回って遊んでいたし、サーカスが
やって来て社域で興行したこともあるが、今は子供の歓声は絶えて静かな祈りの場所と
なっています。
今は正月の初詣に訪れる人もまばらで、御田植祭の奉納神楽に注目する人さえもあまりなく
昔日の面影がないのは残念だが、いつの日かにはイベントの度に黒山の人だかりができる
ようにしたいものです。この社域の南隣に栗村稲荷神社があります。

諏訪神社にはこんな昔話が伝えられています。
うららかな秋のある日、境内を散歩していた諏訪の神様が井戸のそばの柿の木の下を通り
かかったところ柿の実を踏みつけて滑ってしい、その勢いで井戸に落ちてしまったそうだ。
それ以来、諏訪神社の境内には柿の木を植えられることはなく井戸も掘られなくなったと
いう。また、柿の木を植えても実をつけることはないのだそうだ。
だから、諏訪神社の境内とその周辺には柿の木は一本もないのだという。

        御稷神社(ごしょくじんじゃ)
古坂下の御稷神社は、坂下の人達には台の宮公園と言った方が話が早いだろう。
創建年は不詳ですが、坂下では古い神社とされる一つです。
祭神は御倉津神(みけつのかみ)、稲荷神と同じように五穀豊穣を司る神様です。

神社境内にある台の宮公園は、明治41年(1909年)に東宮殿下(後の大正天皇)の会津
行啓を記念して公園に整備したものです。
台の宮公園については、「会津坂下町歩くべガイド」で紹介します。

       台の宮公園と大ケヤキ
御稷神社境内にある台の宮公園は、明治41年(1909年)に東宮殿下(後の大正天皇)の
会津行啓を記念して公園に整備したもので、当時は大きな池もあったそうです。
公園の真ん中に圧倒的な迫力で存在感を見せているケヤキの大木は、樹齢1000年は優に
超えていると伝えられているものです。
大分昔に上半分が失われてしまっていますが、今でも樹勢は旺盛で夏には辺りが薄暗くなる
ほどの葉が茂ります。
その他にも樹齢数百年と思われる巨木が公園を取り囲み見る者を圧倒します。
周囲では宅地開発が進んでいますが、この公園の木々は町の自然遺産として長く後世に
伝えるべきものでしょう。

昭和40年代頃までの町の盆踊りは、このケヤキの下に大きな太鼓櫓を組んで盛大に繰り
広げられ、町内の老若男女が4重、5重もの踊りの輪を作ったものでした。
私が高校3年生の時には、中学時代の同級生や高校の仲間10数人と徒党を組んで、
ある酒造屋さんから借りたハッピをまとって盆踊り会場へ乗り込んだものです。そして、
見物に来ていた他の高校生達も踊りの輪に巻き込んで「チョイサー チョイサッ スッチョイ 
バケツが13銭 安いと思ったら 底抜けだッ チョイナッ」と櫓の上の歌い手にハヤシ言葉を
掛けながら5、6時間もぶっ通しで踊り続けた思い出がよみがえります。
そんな私達の青春の一瞬を、この大ケヤキは微笑みながら見ていたのでしょうか。
それとも「ヤンチャな奴め・・・。」と、苦笑いしていたのか・・・。

台の宮公園には、こんな昔話も・・・、
ここは明治の末頃まで大木がうっそうと繁り、雑木や雑草に覆われ、まるでジャングルのよう
でした。昼でも暗いこの森には、狐の一家が穴を掘って住んでいたそうだ。
その中でも弥十郎と呼ばれたボス狐は、美人に化けるのが大そう得意で、近くを通る若い男
をバカしては、髪の毛をむしり取っていたそうだ。
寄り合いの席で村一番の腕自慢の若者が、「こんどこそ俺がこらしめてやる。」と言って森に
入ったが、翌朝やっぱり坊主頭にされて戻ってきたという。

昼なのに薄暗い公園の大ケヤキを眺めていると「コン!」と、弥十郎狐が顔を覗かせそうな、
そんな幽玄さを感じます。

        栗村弾正と栗村堰
町南の原地区の鶴沼川から県立坂下高校グラウンド裏を通り町外を大きく迂回して塔寺地区
までを流れる川が「栗村堰」です。
今は7m程の川幅しかありませんが、昭和40年代の始め頃の堤防間は15m程もあり堤防
の高さも7m程あったかと思います。(もっと大きな流れだったのかも。)
昭和30年代は流れも清冽で岸辺には芦原が広がり、夏は坂下駅周辺に住んでいた小学生
達の格好の水遊び場でした。(当時の子どもたちは「原の川」と称していました。)
流れのそばには桑畑が広がり、黒く熟した桑の実を食べまくり、口のまわりはもとより手や
シャツまで紫色にして家に帰り、母親にこっぴどくしかられたことがあったっけ。
また、昭和31年(1956年)には写真付近の堤防が決壊し、町が大洪水にみまわれたことも
ありました。

栗村堰は、定林寺の「栗村様感謝の碑」碑文によると、栗村弾正盛俊が永仁4年(1296年、
鎌倉幕府末期)この地に笠松館を築き、七之宮(現在の喜多方市塩川町)から移り村名を
取って栗村氏と称したとあります。(栗村氏は芦名氏の時代に現在の塩川一帯(七之宮)を
拝領して七之宮氏を名乗り、盛俊の時に栗村の地を与えられ地頭となった。当時の定林寺
周辺から西の集落を栗村、台の宮公園あたりの集落を坂下(ばんげ)と呼んでいました。
当時の町は集落が東西に分散していたようです。)栗村氏はこの地の水利が悪く、不毛の地
が多いのを見て水路を開こうと屋敷神の栗村稲荷神社に祈ったそうです。
(町の西端諏訪神社の南隣の栗村稲荷神社は元は定林寺境内にありましたが、明治の神仏
分離令によって今の場所に遷座しました。)
満願の夜、夢うつつに白狐が天から舞い降り水路とすべき地を示された。
これにより元弘元年(1331年、鎌倉幕府滅亡直前)栗村堰の開削に着手、一時戦乱のため
中断(新田義貞の鎌倉攻め、南北朝の動乱で子、孫が戦死する。)、やがて戦乱が収まり
曾孫盛清の代の正平年間(1346年〜1369年)になってようやく工事が竣工し、その後改修
工事が行われ元亀元年(1570年)になってようやく現在の流域に完成、長さ13.4km、
荒地780haが美田と化し、農業は勿論、商工業発展の基礎となったのです。

栗村弾正は文字通り会津坂下町発展の恩人で「坂下に生まれ育った者は栗村様の恩を忘れ
るな。」と言うのが古くからの戒めとして語り継がれています。
もう少し付け加えると、栗村氏とは、神奈川県三浦半島を本拠としていた鎌倉幕府の御家人
三浦一族の佐原十郎義連の系譜の藤倉氏の一族で、七之宮(喜多方市塩川町)の地頭職と
なり七之宮氏を名乗ります。盛俊の時に栗村の地頭となり笠松館を築いて栗村氏を名乗り、
永仁4年(1296年)から天正17年(1587年)の293年間当地の地頭を務めました。
(地頭とは、荘園、公領の軍事、警察、徴税、行政をみて直接、土地や農民を管理する役職
です。簡単に言えば、警察、軍事力を持った徴税官と言うところでしょう。)
現在の栗村堰は昔日の面影はなくなってしまいましたが、700年後の今も流れを絶えること
なく灌漑用水としての役割を充分に果たし、米どころ会津坂下の田畑を潤しており、町民は
会津坂下町の礎を築いた恩人栗村弾正に今なお、畏敬と感謝の念を抱いてるのです。

毎年7月の栗村稲荷神社の例大祭の御田植祭では、神輿巡行が行われ、早乙女踊りや
神楽が奉納される。また、町内の定林寺でも栗村弾正への報恩感謝の読経があげられ
早乙女踊りも奉納される。
ライバン通りは歩行者天国となって露店が並び、各町内から太鼓屋台も曳き回されるなど、
夏休みを目前に控えた子供たちの明るい歓声があふれ、笛や太鼓の音とともに、にぎやかで
活気にあふれた祭日となります。

     杵ガ森古墳(元杵ガ森稲荷)
坂下二中の西、南幹線道沿いにある公園が杵ガ森古墳です。
「新編会津風土記」によると、陸奥の安部氏の反乱の前九年の役を平定する為、東征して
この地にきた源頼義・義家親子は、天喜3年(1055年)京都の石清水八幡神社より心清水
八幡神社を勧請して戦勝祈願を行う為この付近に陣を敷きました。
その時、近隣の農民が兵糧米を提供した。それに感謝した頼義・義家親子は、地域の平安・
豊作を祈念して、杵、臼と米を各一個所ごとに埋めて塚にしたと伝えられています。
それが杵ガ森(稲荷神社)、臼ガ森(愛宕神社)、米ガ森(すでに消滅)で、昔から古墳(円墳)
であると伝えられてきました。

杵ガ森古墳は墳丘に稲荷神社が祀られていたことから、「杵ガ森稲荷」と呼ばれていました。
発掘調査の結果、杵ガ森古墳は4世紀前半の築造で、奈良の「箸墓古墳」と墳形が似てい
る、東北地方最古級の周堀を持った古墳時代前期の前方後円墳であることがわかりました。
(会津若松市の大塚山古墳よりも1世紀以上も古いのです。)
古代の会津と畿内地方との交流を裏付ける貴重な古墳です。周囲には3世紀頃に築かれた
10基の周溝墓や竪穴式住居跡もあり、3世紀から4世紀にかけて連続した定住生活をうか
がい知ることができる極めて珍しい複合遺跡です。
県の史跡に指定され史跡公園として整備されてはいますが、遺跡そのものが暴露状態なの
で、米ガ森のように消滅や風化しないような対策が必要だと思います。
先人の足跡を後の代に伝えるのは「1600年の眠りを覚ませた君達の責任だ。」と、この遺跡
は教えてくれているようです。
現在稲荷神社は遺跡の東北方向の新富町側に遷座されています。

米ガ森塚は、杵ガ森古墳と臼ガ森古墳の中間にあったようですが、いつ頃破壊されたのか
今は資料も遺物も残されていません。

3世紀と言えば邪馬台国卑弥呼の時代、4世紀はヤマト政権が確立する頃です。
古代の坂下には会津地方の中でも強大な力を持った有力者がいて、一つの地域国家として
成立していたようです。

       臼ガ森古墳(愛宕神社)
杵ガ森古墳の北、国道49号線をはさんで300m程離れた所にある小さな森が臼ガ森古墳
です。発掘調査では杵ガ森古墳と同時代の4世紀前半築造の前方後円墳であることがわか
り、わずかながら周堀の名残も残っています。
源頼義・義家親子の坂下来征にまつわる三塚の一つで、塚としての名残を最も感じさせて
くれます。
墳丘には愛宕神社が祀られており、辰年生まれの守り神、火伏せの神として崇敬され、坂下
の人からは「お愛宕様」と慕われてきました。
今は正月の元朝参りに人が訪れる程度の、ひっそりとしたたたずまいで、古の夢の続きを
楽しんでいるかのようです。
参道入口の石燈籠の前を東西に走る通りは旧越後街道で、町指定旧跡です。



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